先日、友人らと「めっちゃ高い声で喋ってみよう」という会を行いました。なんだそれ。
普段の喋りじゃ使わない高音域で喋ることで、ボイトレ的な効果はもちろん、いろんな精神的なリミッターも外れないかな??という漠然とした目的での実験でした。
結果は、、、めっちゃ怖かった!!
ただ、新しい発見もたくさんあったので残しておく。
高い声で喋ることの影響
以下、やってみた感想。
- 高い声で喋ってると、「次に何の話をするか」という脳みそが働かなすぎて、終始、会話が途切れがちになっていた
- 会話のタイミングが掴めず、よく相手の言葉とぶつかって喋ってしまう傾向があった
- 自分の声がうるさくて相手の声が聞き取りづらかった
- 気を抜くとすぐ、いつもの声の低さにもどってしまいそうだった
などなど…。
そして、↑のことたち以上に気になったのが「いま自分は、ものすごく薄っぺらい内容を喋っている」という不安感でした。
例えるなら、脳みそから出てきた意味不明な言葉たちを、何の手も加えないまま相手に提供してる感じ。
ペラッペラなことを喋ってる自分に常にソワソワしてましたw
「ゆっくり明瞭な声で喋る」にも似てる
そういやこのソワソワ感。
以前、ものすごく明瞭&ゆっくり喋ろうとした時にも味わったことがあったんですよね。
相手に伝わりやすいように!と、口の動かし方や声の出し方に気をつけまくって、大げさ&明瞭な声をキープし続けるほど、伝えたかったはずの内容がうまく浮かんでこず、ぺらっぺらな内容の話をしてしまってる自分にひどく混乱したのですw
高い声で喋ってる時も、丁寧な声で喋ってる時も、いずれも「出してる声につられて、思考のギアが強引に切り替えられる」ような感じがあった。
思考より声が先?
仮説「声を出した後に脳は動き出す」
ここで1つの仮説が浮かんできました。
普段使わない声で喋るときに起きる「脳から引きずり出されたような直感的な言葉選び」は、過去、その声を使っていた時期の脳(記憶)が生み出したものではないか?と。
つまり、
- 甲高い声=子供の頃によく使っていた思考
- 丁寧な喋り声=その声が求められていた環境でよく使っていた思考(接客、司会進行など)
などのように、
本人は「脳内で考えたものを言葉にしてる」ように感じているが、実は、出した声を認識した脳がその声をよく使っていた(聞いていた)時期に蓄えた情報の中から、目の前の回答に近しい返事を手癖(脳癖?)で選んでいただけ
なのかもしれない、と思ったのです。
気になった点①
もし上の仮説が成り立つなら、
普段使ってない声でいろんな人と会話することで、当時のまま成長していなかった脳を続きから育てることも可能。
結果として、どんな声でも安定して深い思考&会話ができる自由度が手に入るかもしれない。
気になった点②
今回の場合であれば、
高い声=幼い頃に使っていた声=幼い思考が会話の際に同居しやすい
という可能性が高いので、その声でいろんな会話をしていけば、熟考できなかった幼い思考を成長させていくことも十分に可能なはずなんですよね。
でも、場合によっては、後天的に手に入れた理知的な振る舞いによって、「高い声を出せば、幼い頃のようなリスクを気にしない自由な思考を引き出せる」という貴重なトリガーを失ってしまう可能性だってある。
出来ればその閃きや自由度は残したまま上手いこと成長させていきたい。
うーーむ、会話を育てる環境はどんなところが良いんだろう…
まとめ
ちょっとトンデモ寄りな内容でしたが、新しい発見もたくさんありとてもワクワクした会だった。
ハイトーン会、定期的にやっていきたい。